看取りの45年 ―― あの夜から
看護師 益富美津代 (死の臨床研究会九州支部役員:長崎県在住)
看護師になり、45年が経ちました。私の人生におけるこれからの最大のイベントは、死をどう迎えるかということです。同時に、今の自分に何が出来るのかと思案していた時、看取りのドゥーラのことを知りました。これからの地域での看取りに欠かせない存在になると思いながら、今でもはっきりと思い描くことが出来る私の経験を投稿します。
はじめての夜勤
1981年。新人看護師だった私は、独り立ちした初めての夜勤で、いきなり心肺停止の場面に遭遇しました。1時間前に病室に訪問した時は「大丈夫ですか?」の声掛けにかすかに目を開けて頷いてくれた患者さんでした。
すぐにナースコールで先輩を呼び、仮眠していた奥さんを大声で叩き起こしました。「大変です、起きてください」と。その後水平にしたベッドに乗り上がり、学校で教えられた通りに心臓マッサージを開始しました。患者さんへの初めての心臓マッサージでした。仮眠から起きてきた奥さんは、落ち着いていらっしゃいました。必死に心肺蘇生をする私たちに、遠慮がちに「看護婦さん決まりだと思いますが、いいのですよ」と、何度もおっしゃるのです。呼ばれた当直医師が「(気管内)挿管しないでいいんかなぁ」とつぶやきながら、死亡の確認が行われました。
新人看護師の私をいつも優しく見守ってくださり、とてもとても仲の良いご夫婦でした。
ひと通りのケアが終わり落ち着いた時に、奥さんが静かにお話ししてくださいました。「この人はね、毎晩寝る前にお経のテープを聴きながら眠りに就いていたの。今日もお経のテープを聴きながら私にこう言ったの。ああ何か気持ちいいんだよね、このまま逝けたらいいねって。今日は調子良いのかなと思って、仮眠をとることにしたのよ。だから、看護婦さん、いいのですよ。」と。
同じ方向を向いて・・・・
私たち医療従事者は、命を先延ばしにしようと必死でした。だけど、それ以前にそのご夫婦は死を前提に話をしていたのです。看護が同じ方向を向いていないと感じた出来事でした。
その方は、がんで消化管が完全に閉塞していました。当時生ゴムの太い胃管はいれたくないと拒否し、24時間ベッドを起こして吐き続けていたのです。中心静脈栄養が導入されたばかりで、やせ細ったその方に1日2000キロカロリー以上の輸液が処方されていました。果たして、そんな高カロリーの栄養を取り込む力があったのでしょうか、吐く量もたくさんでした。私はなんて辛い毎日だろうと思っていましたが、死を前にして「何か気持ちいいんだよね」と思える瞬間があることが不思議に思いました。そして、私は毎日その方を受け持ち看護していたのに、寝る前にお経のテープを聴いていたなんて知りませんでした。きっと知ろうとする余裕もなかったのだろうと思います。
45年を経て
この出来事は、救急看護を目指していた私を、死を意識して生きる方達の看護がしたいと、方向転換してくれました。1981年は日本で初めてホスピスが出来た年ですが、ホスピスという言葉もこの時は知りませんでした。それから17年後にホスピス開設に携わり、実に多くのお看取りを経験させていただきました。お看取りに至るまでのお一人おひとりの様々な人生、その後も繋がれて行くご家族の姿も、私にとってはかけがえない人生勉強です。
誰もが迎える死。大切な人が目の前から居なくなること、それは人生最大の悲嘆、喪失です。その死をただ哀しいだけの出来事にしたくないと、言い続けてきました。
45年経った今、看取りの文化はどのように変わってきたのでしょうか。超高齢社会、少子化、地域コミュニティの稀薄化が取沙汰されている中で、唯一無二のその人の人生を最期まで見届ける仕組みが各地域で取組まれています。そこには、見届けるスペシャリストを育成する仕組みが不可欠と思います。この投稿が、その一助になれば幸いです。

