糖尿病からの失明……その中で21年間できるだけのことをしたと自負している

遺族アンケート

76歳妻/看取った人・夫/広島県/2021年回答

本人は21年前、糖尿病から失明に至りました。さらに透析をしなければならないこととなり、当初は週2回でしたが、4~5年前から週3回1日4時間となりました。本人は、透析は死に至るまで続けなければならず、そのことも承知して、さらに視力は最後には0となりました。子どもたちも成長し孫6人もできましたが、本人にとっては治る見込みのない以後の生活に絶望し、自死も考えたようですが、そのことによる子どもたちの社会における立場も考え、つらい生活、通院を20年間続けました。

それ以前、自分が尊厳死協会に加入していることから本人も同意し加入しました。

加入していることは通院中から担当医にカードを見せ、無理のない治療をお願し了承してもらい、以来、他の病気もなく皆勤の状態でした。しかし昨年2月3日透析中高熱を発し、透析後入院することとしました。ちょうどコロナが発生したことで、病院はそのことも配慮したものと思います。入院後の担当医にも意向を伝え、無理のない治療を要請してきましたし、医師もわかってくれたと思っています。

6か月後当面の治療は済んだとして、しかし長い入院生活で通院できる状態ではなくなり、系列の今回の病院に転院しました。ここでも担当医に伝え、楽にしてやってくれと頼みました。医師は「以前の担当医から本人と家族の意向は十分に聞いている」と答え、できるだけの配慮はするとのことでした。それの例として、本人の望む飲食物は何をいくら見舞いとして持参し食べさせても良いとのことでした。食物の好き嫌いが強くて病院食が食べられなかったため、本人が望む食物を週3回、1回15分の面会時に持参しました。これで自分としても、最後まで本人の望みを聞いてやれるだけのことはしたとの自負心ができました。 

最後は日曜の朝、宿直だった担当医から電話で様子がおかしいとあり、娘と病院に行きましたが、すでに問いかけに対する反応もありませんでした。医師は当日の当番医でした。看護師から4人の大部屋から個室への移動を勧められました。いったん家に帰り家族を病院へ向かわせ、全員そろった12時に呼吸器を除されました。苦しむ様子は見えませんでした。

明日、四十九日の法要をします。

21年間、本人は頑張った。医師は自分の責務の中でできるだけの配慮をしてくれた。自分もできるだけのことはした。これで悔いはありません。

これもカードのおかげと思っています。ありがとうございました。思いついたまま書きましたので、読みにくいと思いますが、お許しください。

協会からのコメント

医師とご家族が、そしてご本人が「リビング・ウイル」のもとで気持ちを通わせながら21年間の治療生活を過ごされた様子がよく伝わってきます。

治療方針とご家族の気持ちを合わせていくために「リビング・ウイル」という意思表示は不可欠なのです。「21年間、本人は頑張った。医師は自分の責務の中でできるだけの配慮をしてくれた。自分もできるだけのことはした。これで悔いはありません」……この納得の言葉に着目してほしいと思います。

まさに“尊厳ある最期”の記録として、多くの方の参考にしていただけることと思います。心からのご冥福をお祈りしております。くれぐれもご自愛ください。