安楽死は許されるのか? ~弁護士の立場から「命」を考える~


弁護士 渥美雅子

・ここでは「安楽死」と「尊厳死」という言葉を分別せず「安楽死」という言葉に統一して書きます。
・尊厳死は、人生の最終段階において延命措置を断り自然な死を迎えることです。これに対し、安楽死は、耐え難い苦痛を持つ人の要請により、医師など第三者が直接薬物を投与、あるいは医師が処方した致死薬を患者自身が体内に入れたことによる死を言います。どちらも「本人の意思による」という共通項はありますが、「命を積極的に断つ行為」の有無が決定的に違います。安楽死は日本では一般的に認められていませんし、協会も安楽死を支持していません(尊厳死協会HPより)。


なぜか最近「死」が日常的に語られるようになった。

ほんの少し前まで、日本では「死」は不浄の事として、語るのは「けがらわしい」、「縁起でもない」とされ、それは神様、仏様が決めてくれるものであり、人間はただそれを受け容れるしかないと思われてきた。

しかし、最近になって、「自分の命は自分のものである」、「死ぬも生きるも自分が決めるのは当たり前」という考え方が広まってきたようだ。

自分の死に対してどう挑むか、また、治療の見込みの少ない重症患者に対して、安楽死は許されるのかというようなことに関しても学説や判例が紹介されることが多くなった。
そこでまずは安楽死に関するいくつかの判例をリストアップしてみたい。

1.安楽死に関する判例

事件名時 期概 要判 決
名古屋安楽死事件
(愛知県)
S36.8当時24歳の息子が、全身不随の実父(当時52歳)が余命1週間と医師に宣告された段階で、本人の死にたいという希望を受け、牛乳に農薬を混入し、事情を知らない母親を通じて実父に飲ませて殺害した。【名古屋地裁】
S37.7.4
殺人
懲役3年6月
【名古屋高裁】
S37.12.22
懲役1年執行猶予3年
東海大学
医学部附属病院事件
(神奈川県)
H3.4多発性骨髄腫で入院中の患者の妻と長男から治療行為の中止を求められ、医師は点滴等の治療を中止。さらに、「楽にしてやってほしい。早く家に連れて帰りたい」と要望され、塩化カリウム等の薬物を患者に注射して死亡させた。H7.3.28
殺人
懲役2年執行猶予2年
関西電力病院事件
(大阪府)
H7末期がん患者に、塩化カリウムを投与して安楽死させたとして、担当医師が書類送検された。証拠不十分
訴追見送り
国保京北病院事件
(京都府)
H8.4昏睡状態の末期がん患者に、医師が独断で筋弛緩剤を投与。約10分後に死亡させたとして、病院長が翌年、殺人容疑で書類送検された。H9.12.12
実際に使用した量が致死量に満たなかったため不起訴
川崎共同病院事件
(神奈川県)
H10.11気管支喘息で意識不明状態の患者に対し、主治医が気管内チューブを抜管した。しかし、患者が苦しそうに見える呼吸を繰り返したことから、主治医は准看護師に命じて、筋弛緩剤を静脈注射し、患者を死亡させた。【横浜地裁】
H17.3.25
殺人
懲役3年執行猶予5年
【東京高裁】
H19.2.29
懲役1年6月執行猶予3年
【最高裁】
H21.12.7
上告棄却
高裁判決確定
道立羽幌病院事件
(北海道)
H16.2食事の誤嚥で心肺停止となった患者(90歳)に人工呼吸器を装着。主治医は「脳死状態で回復の見込みはない」と家族に説明し、人工呼吸器を外して、患者を死亡させた。H17.5
不起訴
H18.8
因果関係認定困難
射水市民病院事件
(富山県)
H12.9~
 17.10
平成12年以降、末期状態の患者7名(54~90歳、男性4名、女性3名)に対して、家族の希望により、外科部長らが人工呼吸器を外し、死亡させた。H20.7
元外科部長と元外科第二部長を殺人容疑で書類送検(家族は厳重処分を求めず)
H21.12
不起訴
和歌山県立医大附属
病院紀北分院事件
(和歌山県)
H18.2脳内出血で運ばれてきた88歳女性の緊急手術後に人工呼吸器を装着。女性が脳死状態となったため、医師が人工呼吸器を外し、死亡(心停止)させた。H19.1
殺人容疑で書類送検(刑事処分求めず)
H19.12
不起訴
多治見病院事件
(岐阜県)
H18.10食事をのどに詰まらせ、救急搬送で蘇生後、人工呼吸器が装着されたが、回復が見込めない患者について、本人の「再起不能なら延命治療をしないで」との文書と家族の依頼で、倫理委員会が呼吸器を含む延命治療の中止を決定したが、県の「国の指針もなく、時期尚早」との意見で、治療が中止されないまま患者は死亡した。不起訴
亀田総合病院事件
(千葉県)
H20.4筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者が提出した「病状進行で意思疎通が出来なくなった時は人工呼吸器を外して」という要望書について、倫理委員会はその意思を尊重するよう病院長に提言したが、病院長は「現行法では呼吸器を外せば(殺人容疑などで)逮捕される恐れがある」として、呼吸器外しに難色を示した。

2.フィクションの世界でも
現実に起きた事例はどれも大変深刻であるが、フィクションでそれを現しているものもある。

古くは森鴎外の『高瀬舟』。
「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代、流刑を申し渡された罪人は高瀬舟に乗せられ、大阪へ廻された。ある時、この高瀬舟に喜助という罪人が乗せられた。護送を任じられた下級役人庄兵衛は、喜助が『弟殺し』であることを聞いていた。しかし喜助の顔は晴れやかであり、明るい様子であったため、不思議に思った庄兵衛は、喜助にわけを尋ねた。すると喜助は、罪人に与えられる二百文が手元にある事、決まった時間に食事をとることができる事などと答えた。庄兵衛は喜助の欲のない事、足るを知っている事を不思議に思い、流刑になったわけも尋ねた。幼いころに両親を亡くした喜助は、弟と二人暮らしであったが、そのうちに弟が病気になってしまった。ある日、喜助が家に帰ると、弟は喉にカミソリを刺し自殺を図ったのだ。死にきれない弟は、喜助にカミソリを抜いて死なせてくれと頼み、喜助は悩んだ末、カミソリを抜いた。庄兵衛は、これが人殺しと言えるのかわからなくなり、上の者の判断に任すほかないと思ったが、腑に落ちないものが残った」という話である。

近くは、朔立木の『終の信託』。映画にもなった。
「重篤の患者を診ている女医が、密かに心を寄せている患者の息子に示唆され、患者の呼吸器を外し、薬物を注射して安楽死させる。それがばれて刑事事件(殺人罪)として立件されるが、これは先に紹介した川崎共同病院事件をモチーフにしたものだとも言われている」

女医を演じる草刈民代が担当医の悩みと悲しさをよく現していた。

3.安楽死は許されるのか
今、日本では法律上安楽死は許されてはいない
だが、死を目前にして苦しむ患者を前に、家族などが「先生、早く楽にしてやってください」と必死で頼む時、医師はそれを決断する基準を概ねこんな風に決めているようだ。
①耐え難い肉体的苦痛があること
②死が避けられず、その死期が迫っていること
③肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がないこと
④生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること
 又は家族からその旨を推認できること

そして決断する際には、担当医だけの判断だけではなく、複数の医師の意見を聞き、その一致した判断に基づき実行すること、等々である。

それ以外にも、厚生労働省や日本医師会のガイドライン等で細かい取り決めがある。そういう手順を踏んでやったとしても法律上は違法であるから、医師が「殺人罪」あるいは「嘱託殺人罪」に問われることがありうるわけで、担当医はそのリスクを覚悟しなければならない。

だが、このままでは患者も医師も救われない。きちんとした法律を制定しなければと、10年前頃から超党派議員によって、「終末期の医療における患者の意志の尊重に関する法律」を作ろうと、作成が進められてきたが、未だ法制化するには至っていない。

4.諸外国の状況
この問題について、最も先進的な取り組みをしてきたのはオランダである。

オランダでは、2002年(平成14年)に安楽死法を制定した。その影響で、欧州各国は次々とそれにならって安楽死法を制定している。日本で、生まれながらにしてもっている障害で苦しんでいる女性が、オランダでの法律制定を知って、日本国籍を捨てオランダに移住した等というニュースも伝わってくる。まさに「死ぬ権利」を求めての移住である。

アメリカでも1975年(昭和50年)に、「カレン事件」と呼ばれる事件が起きて、それを機に安楽死が認められることとなった。

カレン事件とは、21歳の女性がパーティーで悪酔いして、昏睡状態に陥ってしまったまま回復しないので、3か月後に両親が彼女の安楽死を求めた事件である。当初、裁判所は安楽死を認めなかったが、両親が最高裁判所に上告したところ、最高裁は、「人命尊重の大原則よりも、死を選ぶ個人の権利が優先されるべきだ」と判示して、カレンさんの人工呼吸器を外すことを認めた。

カトリック教の国としては画期的な判決であり、この時からアメリカでは、多くの州で安楽死が制定されることとなった。

5.神様と喧嘩しながら
今、自分が生きているのは何故であるか。無論、生まれてきたのは自分の力ではない。成長したのは親の力、まわりの人たちのおかげである。

とはいえ、生きていくには何よりも自分の力が必要である。自分で考え、自分で決断し、自分で行動することが何よりも必要だ。

死ぬことも、自分にとっての最後のイベントである。それを自分自身で決めるのは、最後の「自己決定権」であり、この権利はまぎれもなく自分がもっている最大の権利である。ならば、いつ死ぬか、どうやって死ぬか、それを選べる状況であるならば、自分のもっている最大の権利を行使して死にたい。それが「尊厳死」及び「安楽死」ということなのではないだろうか。

でも、そう断言すると、少し神様と喧嘩をしなければならない。

日本人は何かの宗教を深く信じているという人は少ないが、一方、日常的には 八百万の神々がいて、その神々のご機嫌を伺いながら事を進めていく。神々を敬う行事も多い。「生」も「死」も神様の決めることだと、ほとんどの人がそう思っている。

だが、今、人はそれを少しずつ「人が決めること」の領域に変えていこうとしているような気がする。  神様と喧嘩しながら、少しずつ神様の権利を侵食していく。安楽死の問題もそういう問題ではないだろうか。

「生」についても中絶が認められ、優生保護法ができ、人間(ここでは胎児)は「生まれない権利」をもつようになった。

私は学生の頃に芥川龍之介の「河童」を読んだことがある。

「所は上高地の奥にある明神池。河童が妊娠し、出産が近づいてきた頃、お母さん河童はお腹の中にいる胎児の河童と話をする。『お前はこの世に生まれてきたいか、きたくないか』。胎児の河童は、結局生まれてきたくはないというような返事をする。するとお母さん河童のお腹がすうっと凹んでいって、胎児はそのまま消えてしまう」

私はこの小説をどう読んだらいいのか、ストーリーは面白いが、長い間その意味がわからずにいた。  だが最近、人が死ぬ際に自己決定権を行使して、安楽死を選ぶことと並行して考えると少しわかるような気がしてきた。「生」と「死」と、場面は違うが、これはそうした問題の問題提起なのかもしれない。無論、芥川龍之介自身がどういうつもりで書いたのかは知るところではない。

「生」も「死」も、今まで神様の領域だった部分を少しずつ人間の権利に変えていく。文明の発達とは、そういうことなのではないかと思うようになった。

【協会からのコメント】
「日本では『死』は不浄の事として、語るのは『けがらわしい』『縁起でもない』とされ、それは神様、仏様が決めてくれるものであり、人間はただそれを受け容れるしかないと思われてきた」というご指摘の通りだと思います。そこで「生」と「死」を対比して考えてみてほしいのです。

出産も女性の生理も、長く日本では不浄であり、けがらわしいものとされ「神様が決めてくださる」ものでした。昭和初期まで、女性たちは出産の機序も知らず、避妊(家族計画)も、ましてや不妊治療という方法も知りませんでした。人工妊娠中絶の合法化は世界各地で今も求められています。生と死は表裏一体です。妊娠・出産にまつわる人々の意識の変化は、きっと死への意識をも変化させていくに違いありません。

渥美先生に続けて質問してみました。「人工呼吸器装着のお試し期間の法制化」についてはどうお考えですか?と。「お試し期間はあった方が良いと思います。たくさんのケースを集めて、それらのケースを参考にいろいろな立場の人から意見を出してもらうことがよいと思います」とお答えいただきました。

以上