「見殺しになるようなことは避けたい」という言葉に・・。

遺族アンケート

 現実は、医師(病院、訪問医)も病院、高齢者施設共に、受け入れは難しかったです。元気なときは、高齢者施設との関係も問題ありませんでしたが、介護ランクが変わり、施設を移らないといけなくなったとき、次の受け入れ先にリビング・ウイルを伝えると、やはりこちらも入居が難しくなるような話をされました。みなさん「見殺しにすることになるのは避けたい、医療従事者としてできない」と言われました。それでも何人かの医師の方は、「できるだけ希望に沿える方法はこういう方法があります」と提示してくれる方もいました。見殺しになるようなことは避けたいが、本人の気持ちもわかるという感じでした。私自身も完璧に本人の希望をかなえられませんでした。その時になると、やはりどうしても、「助かるなら」と思うところがありました。

協会からのコメント

自然な経緯で“死”を迎える自然死と、見殺しにするということは断じて違います。
“見殺しにする”という言葉使いそのものを、医療者・市民・マスコミにも、正していきたいものです。心無い言葉の使い方は人の尊厳を傷つけてしまうだけでなく、尊厳ある死を希望するという“考え方”の啓発活動の妨げにもなってしまいます。
“不治かつ末期”に至った方の延命治療と“回復可能”な方への治療というのは全く立ち位置が違います。が、どの時点が延命なのか、末期なのかの見極めが難しく、正解はひとつではありません。私たちひとりひとりが、多様な価値観のそれぞれの正解の研究と意見を求めて、比較検討しながら、ご自分にとっての正解を見つけていくことなのだろうと思います。また、これまでの老人施設は、病気になったら病院へ、ましてや看取りまではしないというのが通常でしたが、その傾向も変化の時を迎えています。病気も看取りも高齢者の人生。自然な生活の延長で見守っていこうという流れがうまれています。関わるご家族と医療者たちの意識と地域の格差は、まだまだ大きいのだということを思い知らされるエピソードですね。