延命措置における第3の選択肢の重要性について ~アメリカICU看護師の経験より~

元カリフォルニア大学ロサンゼルス大学病院 ICU看護師
日米国際看護師
木村杏子

私は16年ほどアメリカのUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス)大学病院の集中治療病棟で看護師として勤務し、延命措置の中止にも長年携わってまいりました。アメリカでは延命措置の中止も選択肢の一つとして浸透しているため、延命措置を含む集中治療を一定の期間行ってみて、期待どおりの効果が得られなければ、患者本人や家族などの意思のもと、延命措置を中止することができます。

私のいた大学病院では延命治療の撤退の領域になると、医師が初期オーダーを書きますが、呼吸器の抜管のタイミングを含むその後の諸々の管理は看護師がリードしておりました。このように直接的に延命措置の中止に責任を持って関わる中で、延命措置の撤退における患者さんや家族に対するたくさんのメリットや、この選択肢があることの重要性を目の当たりにしてきました。

現在アメリカでは延命措置の中止という選択肢が当然の如く存在するため、あえて「お試し期間」という括りとはならないのですが、最近やっと日本でも提唱され始めたこの考え方、および延命措置の選択肢の存在を浸透させたいという強い思いもあり、私は帰国しました。この「小さな灯台」の特集を機会に、私のアメリカでの経験からその重要性をお伝えしたいと思います。

◎第3の選択肢とは 
日本の延命措置における選択肢は、現状、ほぼ2択。
① 延命措置を行う(心肺蘇生や、呼吸器等の延命装置を使用した治療の開始・継続)
② 延命措置を行わない(延命措置の差し控え)
といった二者択一となっているのが現状。私はこれに加えて第3の選択肢の重要性と効果についての認識が浸透し、選択肢の1つとして日本にも当たり前に存在する日を待ち望みながら活動を続けています。
その第3の選択肢とは、
③既に行われている延命措置を中止するというもの。

私が長年働いていたICUは、患者が生死の狭間を行き交うという特殊な環境下であり、常に患者やその家族の様々な死生観や価値観に寄り添ったケアが要求されます。個人主義の傾向が強いアメリカでは特に、個々が自身のことについて考え、意見・意思をしっかりもち、伝えることが、ある意味当たり前な世界です。

患者本人に意識があり、理解・判断能力がある場合は、当然のことながら家族ではなくまず本人に病状説明を行い、意思決定を促します。病状説明の際の家族の同席や、家族への情報開示など、あくまでも患者本人に許可を得た上で行います。医療者側も、本人の意思を最優先に尊重します。医療的リビング・ウイルや事前指示書を持っている患者も少なくなく、きちんとプロセスされた文書は法的効力も持ち備えます。本人に意識や判断能力が無い場合、家族が代理で患者の延命措置を実施するか否かの判断をしなくてはならない訳ですが、こういった文書の存在は、患者本人の意思が尊重されるだけでなく、家族の精神的負担を減らす上でも役立ちます。

ところが、こういった本人の意思がわかる文書や、本人が意思決定できていない場合はどうでしょうか?

意思決定者が本人であれ家族であれ、緊急の状況では即座の決断が迫られます。延命措置を行うのか行わないのか、そんな人生の大きな難しい決断を即座に下さなくてはならないのです。前述した日本の二者択一は「全か無か」の形式。

そのような状況で生じ得る2つのケースを例にあげます。

①延命措置をする決断したものの実際に呼吸器をつけてみたらとても耐えられる状況ではなくつらいばかりだ。こんなんでは死んだほうがマシだ。つらい日々から解放され早く死にたい。⇒でも延命措置の中止はできず苦痛の日々が延長
②機械に繋がれる生活なんて絶対嫌だから延命措置は拒否。でももし呼吸器が想像したほどつらくなかったら? もし呼吸器が必要だったのが1日だけでその後元気になれたとしたら? ⇒ 延命措置拒否の時点で元気になる可能性も抹消され……。

つまり、2択のみの場合、無益な治療のために、ただただつらいだけの死にゆく期間が延長されることもあれば、逆に、ちょっとの我慢ののちに元気に生きられるチャンスまで奪ってしまうこともあるということです。

◎もしも第3の選択肢(=延命措置の中止)があったら……

③第3の選択肢(延命措置の中止)が存在する場合では、①と②の2つのケースはどうなるでしょうか?
①の場合:呼吸器がこんなつらいものだとは想像していなかった
⇒ 耐えられないので延命措置を中止し苦痛の無い最期を迎えることもできる
②の場合:つらかったら途中で中止すれば良いのだから、まずは呼吸器を試してみよう
⇒ 意外と呼吸器つらくないからもう少し生きてみよう。または一時的に呼吸器装着を我慢したら回復し抜管して元気になれた。

もちろん、このようなケースが全てではないですが、延命措置の中止ができるという前提があれば、②のケースのように救える命も増えるのです。

第3の選択肢の効果は、このような「お試し期間」的扱いによるものだけではありません。
なにより注目すべきは、①の場合に示したように、無益な治療による苦痛から開放され安らかな最期を迎えられることです。本人の意思や尊厳が尊重されることは言うまでもなく、患者の苦痛の無い最期というのは、家族の心の安寧において大きな意味を持ちます。
さらには、延命措置の中止の上では、タイミングや環境など、コントロールできる要素が増えます。夜中の病室で急変して誰にも看取られず亡くなるのではなく、多くの場合、大切な人たちが周りに集まるのを待ってから中止のプロセスを開始します。患者の好きな人やもの、音楽などで部屋を飾って、家族との特別な空間を演出することができます。

「サヨナラや愛してる」をきちんと伝えることができたかどうか、看取ることができたかどうか、最期の時間をどのように過ごしたか、それは残された遺族のその後の人生に大きく響いてくるので重要なポイントです。

ここでは詳しく述べませんが、家族と患者の両者の気持ちに寄り添い、どう最期の時間を演出するかというのは、私自身看護師としてとても力を入れている部分でした。そしてそれは、これまで患者の苦痛を目の当たりにしてきた医療者側の心持ちにもつながります。延命措置や病気による苦痛からやっと解放してあげられた、本人の意思を尊重できた、看取りも含め精一杯のケアを提供できた、ということは、その方へのケアに対して医療者としてもきちんと終止符を打つ助けになります。

◎ひとりひとりが自分らしい選択を 
実際の現場での経験を通して、この第3の選択肢があることの重要性を述べたら枚挙にいとまがありません。まだ稀ではありますが、最近は延命措置の中止を実施する医療機関もあると聞くので、やっと日本も少しずつ変化しているようには見受けられます。

アメリカでは治る見込みの無い無益な治療(Futile Care)を続けることは非倫理的という考え方があります。ましてや苦痛であることを知りながらも延命措置を中止する選択肢が本人や家族にも許されないとなると、どこに倫理が存在するのでしょうか? 更には「お試し」も許されず、全か無かの選択肢しかないことで、生きられるはずだった命を奪う権利や責任は誰にあるのでしょうか?

私は昔から、「選択肢を与えること=人権を与えること」だという強い信念を持っています。延命措置においては、当然あるべき第3の選択肢が世に浸透し、ひとりひとりが自分らしい選択をできる時代が早く訪れるよう、心から願うばかりです。

【協会からのコメント】
アメリカで「カリフォルニア大学ロサンゼルス大学病院 ICU」でのご経験を寄稿していただき誠にありがとうございました。私たち看護師の希望と目標が与えられた思いです。

以上