ほんとうに必要な処置だったか、素人にはわかりません。
遺族アンケート
90歳での発症でしたので、最初からお医者様は、きつい治療はせず、経過をみながら見守っていきましょうという感じでした。リビング・ウイルについては、「そうですか」とさらっと流されたような印象をもちました。興味がないのか、どちらにしても見守るという方向性だからかはわかりません。亡くなる2カ月前に、たまたま受けた血液検査で病気が分かりましたが、本人に自覚症状がなく、通常の生活をしていました。亡くなる2週間ほど前に検査の数値が急に悪くなり(この時も自覚症状なし)、飲み薬の抗がん剤が処方されました。「くすり、どうします?」と、一応、本人には確認して下さいました。(素人のおじいさんには、なかなか難しいです)お医者様としては、悪化を少しでも遅らせようとして下さったのだと思いますが、急に何を食べても「味がしない」と食欲がおちました。あの薬はない方が良かったなあと、今にして個人的には思います。薬が処方されてから3日後に足に内出血がみられ、これをきっかけに入院しました。見舞いに行くと、輸血や点滴などの処置がされていましたが、本などをよむと、亡くなる前は何もしない方がスムーズに移行できるという話もありますので、これも本当に必要だったのか、素人にはわかりませんが、ホスピスならどういう対応だったのか?と考えたりします。亡くなる3日位前から苦しそうだったので、痛みをとる点滴をして頂けたのは有難かったですが、どのタイミングでその薬を使うか難しいところかもしれないと思いました。意思疎通ができなくなるので、お医者様はタイミングをはかっておられたと思いますが、もう少し早くしんどさを取り除いてあげたかったという気もします。でも、おおむねは良い対応をして頂けたように思います。
協会からのコメント
いわゆる「お医者様」に「もの申す=希望や意見を言う」ことに心理的抵抗感を持たれている人々の気持ちが良く表現されています。「病気や治療のことはお医者様にお任せ。素人が口だしすべきではない」という世間一般の思い
込みはまだまだ根強いものがありますね。 ほんとうは「~だろうと思う。~と感じた。~だったら良かったかも」というレベルから一歩深めた確認の対話が成立していたら、そして、リビング・ウイルを提示する気持ちを明確に受容されて、それがしっかり伝わるような説明をしてもらえたら、もっと納得が得られた看取りができただろうと思います。が、「おおむね、良い対応をしていただけたと思う」の『ひとこと』にほっと安堵の思いがしました。
一般的にリビング・ウイル受容協力医師に私たちが期待しているのは看取りを受け容れるために必要な情報を得られる《納得の対話》をしてくださる医師です。《納得の対話》のための理想的な一例としては①抗癌剤は飲むとどうなるか②飲まなければどうなる可能性があるか③見つかった病気の部位からどんな不愉快な症状が出て来て、どんな対処の限界と方法があるか、などの丁寧な説明です。同時に、私たち患者家族も、医師は「治療方法があるのに、高齢であるという理由だけで治療の差し控えはできない」という倫理的な大きな葛藤を抱えることにも十分に理解する必要があります。
まだまだ今は、医師と患者の双方に“命の限界その時!”のお互いの立場の違いの相互理解が必要な段階なのだと思います。