50年前はなかった「尊厳死を受け容れる医療」が今はある

遺族アンケート

93歳母/看取った人・娘/岐阜県/2021年回答

父は49歳の時、肺がんで亡くなりました。50年以上も前です。痛みを取るためにモルヒネを使う(治ることはない、ということは早くからわかっていました)のを、命が縮まっても構いませんから、とお願いしても行っていただけず、最後まで苦しみました。1分でも長く生かすためにはどんな手段を取るか、そのための医療しかなかったと今も思います。

母は父に10か月付き添って恐ろしくなり、尊厳死協会に入会しました。戦後無理した母の身体は年と共に病気が増え、軽やかな身体は1日もなかったようです。いつも具合が悪く、それでも家を守り、家族を守りで、80歳ぐらいから病気が吹き出すように増え、入退院の繰り返しでした。

母は、母の考えやつらさを知っていた私を頼りにして「尊厳死協会のカードと宣言書と希望表明書を持っていてほしい。先生に見せてほしい」と常に言っていました。私は何度もお医者様・看護師の方々・救急隊員の方に見せていました。

30年以上のかかりつけ医→訪問医・1年間→様子が変だからと救急車で入院した時の担当医・10日間。最後にお世話になった先生は、電話や面会をしてくださり、兄と私にきちっと説明をしてくださいました。こちらの話もじっと聞いていただき「酸素濃度が低くなりだしたら、医療用のモルヒネを使いましょう」という話になりました。その帰りに病室をのぞきましたら「待っていたのよ」とばかりに、さささ~っと、あっという間に息をひきとりました。

母の意志をうなずいて聞いてくださった先生方3名は、どんなに私にとって心強かったか。母が尊厳死協会の会員になっていてくださって、娘の私はどんなにありがたいと思ったでしょう。いろいろ思い迷わずにすみました。

母の亡き後は、今度は私が入会すると決めていました。それほど何十年もの間、母も私も『カードと宣言書と希望表明書』に救われてきたのです。今も私は、母の形見として3点を私の手元に置いています。ありがとうございました。感謝です。

協会からのコメント

50年前から現在への「医療の変遷」がありのままに伝わってくる「看取りのエピソード」です。ぜひ、多くの皆様に届いてほしいと願います。

病名がなんであれ、末期の患者・家族がどんな思いでいるのか、その意思を通すためにどれほどの意思表明の努力をするものなのか、医療者側にもしっかり届いてほしいと思います。

尊厳死協会へ入会し、リビング・ウイルカード・宣言書と希望表明書を根拠に、意思を表明し続けてくださったこと。そうして達成された意思によって、ご家族が「いろいろ思い迷わずにすみました」という感謝と愛がうまれていることに、多くの人々が着目してほしいと願います。

丁寧に経緯を記し、投稿してくださり、ありがとうございました。くれぐれもご自愛ください。これからの尊厳死協会の活動、そして「小さな灯台」が大きく育つことへのお力添えもどうぞよろしくお願いいたします。