尊厳死の意思は、残された者への思いやり。

遺族アンケート

サ高住に4年間お世話になりました。看取りをしていただける所ですので、入所時より「延命のための入院をしないで看取っていただく」道を選択いたしました。訪問医さんも施設さんもこちらの思いを十分にくんで、解熱鎮痛剤の服用を続けながら最後まで口から飲食し、きれいな体、きれいな表情で息を引きとりました。声が出なくなっていましたが、その表情、握り返す手のぬくもりで、父の気持ちは全部私に伝わってきました。何の後悔もありませんでした。
斎場の順番待ちで1週間ほど施設のベッドでドライアイスで対応していただきながら、父との時間を過ごすうち「声が出たら何を言ったのだろうか。治療をしたら出るようになったのだろうか」と、ほんの少し考えることもありました。でも、それを父が望まないのはわかっていましたし、何かを言葉で伝えなければならないのは、そしてそれにこちらが答えなければならないのは、きっと大きな後悔を生むことになるだろうと想像できました。
ドラマのようにうまく旅立てるはずがありません。言葉は後悔を生み、それは遺されたものを苦しめます。声が出なくなったことも父の思いやりであったと思っています。
協会の皆様とは私は直接関わっておりませんので冊子を拝見するのみでしたが、同じように時間が経ってからこれで良かったのかと、悩んだ方のお話を読んでいましたので、ああ、なるほどなと思いました。「若い時と終末期とは、本人の意思も変わっているだろう」というご意見も一理あると思っています。でも大切なのは、冷静に考えられる時の意志だと私は思っています。その多くは遺される者に対する思いであり、それを忘れたくないからこそ、尊厳死の意志を伝えておくのだろうと思います。
やっぱりもっと生きたい、と思い始めたとしたら困るから、伝えておくのだろうと思います。終末期に気持ちが変わる事を考慮したら、尊厳死の意味がなくなるのではないでしょうか。人はそんなに強くないのですから。
長い間お世話になり、ありがとうございました。心より感謝申し上げます。

協会からのコメント

現代医療の実情は、最後まで口から飲み、食べ、きれいな体で亡くなるのは、ほんとうに難しいことなのです。最後まで口から飲食し、きれいな体、きれいな表情で息を引き取られたのは、素晴らしいことだったと、どうぞ自信を持ってください。「やっぱりもっと生きたい」と思っても、どんな形で生き続けるのかを、冷静に考えることができるときに、ご自身で決めたことが重要だと思います。自分の意思を伝えられないような状態でいることが「生きている」と言えるのか、と考えておられたのかもしれません。「言葉」は人と繋がるツールですが、人を苦しめることがあります、一度出た言葉は取り返しがつきません。お父様の決断は美しいと思いました。
貴重な体験を投稿していただき、ほんとうにありがとうございました。ひとりひとりの異なる経験を見たり聞いたりする機会が増えることが、きっとそれぞれの、何か良い参考になるはずですから。こちらこそ、これからもどうぞよろしく。