【情報BOX】【対象喪失と悲嘆・グリーフ】について「大切な人や家族を喪失するという体験」

 大切な人を亡くされた方々の「グリーフ」について、さらに専門の方からのご投稿をお願いしました。日本仏教看護・ビハーラ学会 名誉会長の藤腹明子様から「悲嘆に育まれた死生観こそが残された日々をより良く生きる力になる」と、読み進むうちに不思議と心が落ち着く寄稿をいただきました。2026年2月18日・【情報BOX】の「グリーフケアとピアカウンセリング」及び2022年8月31日「大切な人を亡くした哀しみを癒すために」 も参考になります。ぜひあわせてご覧ください。

日本仏教看護・ビハーラ学会 名誉会長  藤腹 明子 (ふじはら あきこ)

◎人生で経験する対象喪失と悲嘆

私たちは人生においていろいろなものを失う、亡くす、奪われるという体験をします。これらの状態を「対象喪失」という言葉で表現します。大切な人との死別や離別だけではなく、住み慣れた家や仕事上の地位・役割を失うこと、病気やけがなどによって体の一部や機能を失うこと、また自分が大事にしていた宝石や財産などを失うことなども含まれます。これらの喪失体験はストレスの原因となり、なかでも配偶者の死や離別、親密な家族メンバーの死は、最もストレスが高いといわれています。 

 大切な人の死という喪失体験によってあらわれる反応をグリーフgriefといい、日本語では深い悲しみ、悲嘆を意味します。この悲嘆反応は、それを経験した人であれば誰もが示す反応であり、さまざまな感情を体験しながら、喪失したことに対して適応していきます。個人差もありますが、この過程は半年から1年以上続くとされています。なかには、いつまでも喪失感から立ち直れず、それが身体や精神(心)の不調、日常生活の行動に変化をもたらす場合があります。

 たとえば、不眠、食欲不振、疲労感、頭痛、肩こり、便秘や下痢などの身体的反応、抑うつ、不安、孤独、寂しさ、怒り、やるせなさ、感情麻痺などの精神的な反応、引きこもる、ぼんやりする、動き回る、落ち着きがなくなるなどの行動の変化です。場合によっては、喪失感から逃避してアルコールに依存したり、仕事に異常に熱中したり、賭け事に興じたりする人もいるかもしれません。

 このように、大切な人を失った後に深い悲しみが長く続き、日常生活や社会生活に支障を来たし、治療の対象となる場合もあります。では、喪失体験にともなう悲しみや苦しみを少しでも軽減するにはどうしたらいいのでしょうか。

◎予期悲嘆と遺族へのケア

 悲嘆の心理過程は人を失ってから始まるとは限らず、たとえば、がんなどの病名を告げられることによって亡くなることを予期した時点から始まります。このような、死別を予期してあらわれる悲嘆反応のことを、臨床では予期的悲嘆、予期悲嘆などといいます。少しずつ対象を失う心理過程をたどることによって、実際に大切な人を亡くしたときに受ける衝撃の程度を緩和する働きをするわけです。末期患者さんをケアする施設では、病人を看取る家族が悔いを残すことなく世話ができたという満足感が得られるように、病人との間に良い思い出が残るように、さらには、病人の死後、一日も早く悲嘆から立ち直れることを目ざしてケアをしています。施設によっては、死亡退院後に遺族に手紙を送ったり、遺族と病棟のチームケアメンバーとの交流会を開催したり、遺族同士の体験を共有し、お互いに支え合うような語らいの会が開催されています。

◎悲嘆は人に「死生観」を育むチャンスを与えてくれる
 人が亡くなるまでのケアの在りようやその後の対応が、遺族の悲嘆を軽減し、本来の生活を取り戻していくうえで役に立つことはいうまでもありません。しかし、それは一過性の対応のように思われてなりません。本来、喪失にともなう深い悲しみや苦しみは、第三者が成り代わったり、解決できる類のものではありません。悲嘆の過程は、この世に生を享けた個々人が請け負わねばならない人としての務めであり、課題です。 

 しかし、この悲嘆は時に、私たちに「死生観」を育むチャンスを与えてくれます。それは、「人はいったいどこから来て、何のためにこの世に生を享けたのか、何のために生き、何をたいせつに生きていけばいいのか、そして死んだらどうなるのか、どこに往くのだろう」ということに対峙させてくれるからです。この問いかけこそが、その人の「死生観」の基(もとい)となって、「生命(いのち)」をめぐるあらゆる判断や行動に価値や方向性を与えてくれます。もちろん、大切な人を失った悲嘆からの立ち直りにも望ましい影響をもたらしてくれることでしょう。死生観の基となるこの問いかけは、この世に生を享けた人としての根本となる事がらであり、生涯をかけて向き合う大切なことではないかと考えています。

 私たちは、人生で経験するさまざまな対象喪失と悲嘆を避けて通ることはできませんが、自身の死生観を育むことによって、喪失感から立ち直れなかったり、病に陥り、治療の対象となるようなことにはならないように思います。この問いかけに対する答えは、そう簡単に得られるものではありません。宗教をはじめとして、哲学、文学、芸術などさまざまな領域の真理に向き合い、自ら腑に落ちる答えを求め続ける態度こそが大切なのではないかと思っています。

◎我が家の喪失体験

 わが家では、普段、自分や人の生き死にについて語り合うことはわりと多かったように思います。
 卑近な例を挙げて恐縮ですが、私は、祖母と両親を看取りました。祖母は脳卒中で3か月にわたる療養の後、自宅にて家族全員で最期を看取り、死後のケアも行いました。父は胃がんと診断され6か月の療養後、病院で最期を迎えました。母と一緒に死後のケアにも参加しました。母はこれといった病気はありませんでしたが、自宅で10数年にわたる介護を受けた後、老衰で亡くなりました。訪問看護師の方と一緒に死後のケアにもかかわりました。それぞれ3人の死後、残された家族は他からのケアを必要とすることなく、家族の死を受け容れ、スムースに日常生活に戻ることができました。いずれも病気、老衰など予測できる死であり、緩徐(かんじょ)な死であり、苦痛・苦悩の少ないおだやかな死であったことも対象喪失による悲嘆を軽減してくれたのかもしれません。

以上