インタビュー・希望を言えば最期はやはり自宅で

俳優 近藤正臣さん、長尾副理事長が聞く「50代で入会のわけ」

ご夫婦で20年来の日本尊厳死協会会員である俳優の近藤正臣さんが6月18日、東京・六本木の政策研究大学院大学で行われた協会設立40周年記念の第5回「日本リビングウイル研究会」に登場して、1時間にわたって300人の聴衆に入会の動機や自らの死生観を語り尽した。聞き手は長尾和宏・協会副理事長。

本日はお忙しいところ︑ありがとうございます︒近藤さんはNHKの「あさが来た」「真田丸」で大活躍中です︒見ていると︑死ぬ役や人を斬るシーンがある。

 いきなりそこにきますか。
いくつも死んだり殺したりを、仕事の上でやってきていますけれども、「こういう死に方ええなあ」と思うような死に方はそうなかったんです。
だけど、「あさが来た」は、おかしなことに芝居の本番をやっている時に、私の頭に流れてきてた音楽は祭りのお囃子なんです。ステレ、テン、……スットントン……と流れておって、それでああいうせりふをしゃべれていって、なんとも気持ち良かったんですね。あの時はほんまに死んだような気分になったんですよ。

近藤さんは20年前53歳の時にリビング・ウイルを書いて日本尊厳死協会に入会ですけれども。

私、京都で生まれて、そこで育ってきたんですけど。おじいちゃんが桶屋の職人で、元気やったんですよ。天秤担いでね、桶の直しをしてはった。小学校の5、6年生やったか、急に「風邪ひいた」と言って寝て、1週間で肺炎で死んでいるんです、家の中です。初めて私、自分の近い人が死んでいるというのを見たんですね。
最後はなんや覚えてないんですね、焼き場に行ったの。で、こんなお骨のからからに入って。ヘーッ、あんだけガタイのあった人が、こんな小そうならはる。これが死ぬということかいなあと思うたんですけど。なんか急に怖うなってきたんですよ。
「怖い︑お母ちゃん、死んだらどないなんの?」。お母ちゃん、困ったんですね。「私も死んでへんやさかい、分からへんやない。お父ちゃんのお墓のあるお寺さんへ行ってな、お坊さんに教えてもらい」と言われて、行ったんですよ、1人で。
法主さんが出てきはりましてな、巻物を2つ持ってきてね、広げて、「見てみない。これは地獄や、これが極楽や。死んだらどっちかに行くねや。こっちへ行きたい人は悪いことしたら行けるねん。こっちはええことしたら行ける」。
小学生のボク、何も分からないですよ。和尚さんから納得いく話を聞いてなかったですね。

原体験が大事ですから、そこで初めて身内の死を・・・

その後は、周りで死んだ人がいなかったんです。いつの間にか、私50歳です。今度は生まれたという話が聞けたんですね。私の娘が、私が50歳の時に子供を産みはりましたんや。50歳でおじいちゃん、あかんやろ、オレ役者やってんや、それ営業妨害と言われへんか。しかし、「おじいさん」と社会から呼ばれる身になったということは明らかやったんですね。
ちょうどその頃、普通に死ねん、あるいは、むごい生き様をさらしながら、なかなか死なせてもらえへんで、周りの人らも大変や、とかそういうニュースがちょこん、ちょこんと出てくるんですね。ある時、何か知らん、全身から管が出ているドキュメンタリーのニュースを見た途端にですね、「これはあかん、これは怖い」と思った。
なんとかこの恐怖心から逃げたいなあと思ったら、尊厳死協会というのがあったんですね。この協会に入っていたら、「控えよ、私は尊厳死を望んでおるんで、このような死に様はしとうない」てなことを言うたら、抜いてくれはるんやと思うてたんです。 どこで見つけはったんですか?なんで見つけたんでしょうね。気にしている時にピッと目に入ったんでしょうね、きっと「。尊厳死」って、死ぬのに「尊厳」がつくのがすごいなあと思って。これなら怖わないかもしれんと言うような割と簡単な動機でしょう。
ちょっとあることは、「アー、ウン」やら言うて家で倒れそうになって救急車呼びますね。めったに乗らないからちょっとうれしいですけれども……

乗ったことあるんですか?

2回ぐらいあるんですよ。着いたら、されるがままなんですね。救急で助けなあかんし、なんとかせなあかんだろうと始まるやないですか。そこまではボクは無理はないと思うんですけど。救急が終わって「もうちょっと安静にしましょうか」とか言い出して、労わって、「あきませんなあ、だんだん栄養足らんようになったら、ちょっとユンケルにしましょう」みたいなこと言うて(笑)。一番怖いのは、飯が食えんようになってきましたら、「近藤さん、可哀想に、お腹空くでしょう」、「いや、食べられしません」、「胃に穴を開けて、栄養流してあげましょう」。

胃ろうやね。

「おおきに」とは言われへんです、私、絶対言われないんですよ。それやったら、もう食わんで死のうと思うぐらいの気分なんですけれども。

近藤さん、なかなかその時にならないと分からへんかもしれないけど、最期はどうです?

希望でよければ、やはり自宅です。ちょっとご迷惑かけるかもしれないですね。例えば、夫婦2人でいる場合ですよ、かけるかもしれないですね。例えば、夫婦2人でいる場合ですよ、オレがここにいて、寝てんのや。先生が来てくれて、「痛ない注射を打ちましょう。痛ないやつ」て言うて、痛ない注 射を打ってもらって、で、しばらくしたら、「まあ、もうあと1週間はちょっと難しいかもしれないですねえ」と言うのを、オレに聞こえんようにしゃべってても、オレはそれを耳ざとう聞いてしまうんですね。
西行さんが死ぬ前に満開の桜の下で満月の夜に死にたいという歌を書いています、「願わくは……」というやつをね。「もうあかんな」という時にあの歌を作りまして、それからちゃんと計画的に五穀を断って、水を断って、じっと桜の木の下に座るんですね。自分でそういう風に歌に詠んだ状況を作って、桜満開の夜、満月の下で「やったあ」。すごいですねえ。
ほんまにリビング・ウイルのカードを見せたら、これは黄門さんの印籠代わりになるんですか?

なります、法律はないけれども。協会では会員のご遺族にアンケートして、「役に立ちましたか?」と聞いています。90数パーセントが「役に立ちました」と言うてます。

なら、持っていて安心していい。ゆくゆくこういうものがちゃんと機能していくことがはっきりしてしもうたら、(役者仲間にも)勧めやすくなる。

考え方を変えなあかん横着したりせんと気楽に

最後に何かメッセージを。

「国盗り物語」をNHKでやってる時に、私、明智光秀の役をやってまして、高橋英樹君が信長やってまして、必ず、「人生五十年 ……」というのをやらはるんですね、仕舞をね。その時にほんまに私もね、「人生は50年くらいやな」と思うたんもあるんです。それは40歳になるかならん時に、もう50年まで生きたらもうそれでいいんちゃう、みたいな。
 これが今度は還暦まできた時には、自分でも「エッ、還暦、暦が還るのや、ゼロになるわけやな、ゼロ歳や、60歳までのやつ、一遍、ボッと切ってゼロから行くぞ」と思うたんやけど、実はその次の年、ボクは61歳やったんですね。
そのまんま、ウーンと思いながら来たら、「そろそろ、近藤さん古希でございますなあ」てなこと言われて。古希てな、そんな「いにしえ(古)まれ(稀)」やで。(この会場も)古希ばかりや。(笑)
だからちょっと考え方を変えなあかんねんけれども、もう死んでもええやろうという、そういう考え方やなくて、まだこれ生きてんやさかいに、とりあえず、まああんまりヤンチャしたり、横着したりせんと、割と気楽に、うーん、もう仕事一生懸命やろうとか、そんなこと考えへんのですね。まあやれる仕事ならやらせていただきましょう。でも、もうそんなに無理してあれもやる、これもやる、なんてことは止めて、のんびりと。
 ほんまにこんなん気障ですけど、田舎で日本の四季、「死ぬ期」じゃないんですよ(笑)、4つの季節の「四季」なんですよ。じっくりと2、3年見たい、という風なことを考えております。

今日は色んな話をうかがえて、夢のような1時間でした。ありがとうございました。

近藤正臣(こんどう・まさおみ)
1942年京都市生まれ、俳優。映画、ドラマ、舞台で活躍。最近では、NHK連続テレビ小説「あさが来た」、大河ドラマ「真田丸」などに出演。「真田丸」では、徳川家康を天下取りに導いた名参謀、本多正信役で存在感を見せている。山や海、自然を愛し、長良川や郡上八幡の自然保護運動にも参加。1966年、53歳で日本尊厳死協会に入会。

長尾和宏(ながお・かずひろ)
1958年生まれ。 東京医科大学医学部卒業。外来診療と365日24時間の在宅診療を行う「長尾クリニック」院長。『平穏死10の条件』など著書多数。日本尊厳死協会副理事長。