インタビュー・尊厳とともに生き 尊厳とともに死ぬ

日本尊厳死協会顧問の牛尾治朗・ウシオ電機会長は、経済界のみならず政界などにも影響力をもつ人物として知られる。84歳の今も現役として多忙ななか、インタビューに応じていただき、協会の伊勢田暁子評議員が東京・大手町の本社を訪れた。

うしお・じろう

昭和6年、兵庫県生まれ。
28年、東京大学法学部卒業、東京銀行入行。
31年、カリフォルニア大学政治学大学院留学。
39年、ウシオ電機設立、社長就任。
54年、会長就任。
平成7年、経済同友会代表幹事。
12年、DDI(現KDDI)会長。
13年、内閣府経済財政諮問会議議員。
15年、日本生産性本部会長。

本日はお忙しいところ、ありがとうございます。まずお伺いしたいのは、昨年7月に奥様の春子様(享年81歳)とのお別れを体験され、どんなことを感じられたでしょうか。

夫婦で19年前に会員になり、ボクのカードは家内が持ち、ボクが家内のカードを持っていた。 家内は夕食前に心臓マヒで倒れました。会社にいたボクに連絡が入り、「救急隊員と話してください」というので、ボクは蘇生の可能性について尋ねて、難しいことが分かったので、延命措置はお断りした。救急隊員が「そうですか、ご本人は生前、何かおっしゃっていましたか」と聞くから、「ボクらは尊厳死協会の会員です」と言ったら、「それなら結構です」とすぐに理解してくれた。 

家内が尊厳死 救急隊員も分かってくれた

すでに心臓の止まっていた家内は静かに逝き、運ばれた病院に家族10数人が駆けつけてから医師によって死亡時間が確認され、みんなで看取ることができた。
あの時、救急隊員も認めてくれている尊厳死協会はすごいなと思いました。

まだまだお元気な会長ですが、いずれは誰もが避けられない終末期を迎えられる時のことをどうお考えですか。

ボクは家内の希望をよく知っていたから、カンフル(強心剤)も打たないでくれと頼むことができました。
入会する時、ある先輩から尊厳死について「夫婦は簡単に理解し合えるけど、子供たちは反対する。子供たちとよく話し合ってから入会したほうがいい」と言われた。

問題は子供 納得させるのに2年かかった

子供として、親の最期に可能な限りの延命措置を行わないのは「冷たい」と思われるのが嫌なのだろう。でも、「ボクの思うとおりにしてくれ」と頼んだら、最後は「分かった」と言ってくれた。納得してもらうのに2年かかった。

ご夫婦で入会されたいきさつはどういうことだったのですか。

協会の波多野ミキさん(元副理事長)から、顧問になってほしいと依頼がありました。ミキさんのご亭主は、ボクの東大の同級生です。 夫婦で終身会員になりました。会費を払い忘れてしまい、いざという時に会員でなかったら困るからね。 ボクはこれまでに、色々な場所で約50回も尊厳死の話をしています。みんな、「それはいい」と言う。「オレは反対だ」という人に会ったことがない。「入会のご案内」が欲しいというので、100人に送ったら、20人ほどが入会してくれた。

小泉純一郎首相(当時)が入会されたのも、牛尾会長のお勧めでしょうか。

かもしれないね。 ボクが顧問を引き受けたのは、協会のリビング・ウイル(尊厳死の宣言書)の3項目を読んで、「これだ」と思ったからです。

死を決めるのは自分であって医師ではない

当時、ボクは「尊厳とともに生き、尊厳とともに死ぬ」という言葉に共感していた。
尊厳死協会の言葉だと思っていたけど、違うんですね。どこで聞いたものだったか。とにかく、「尊厳とともに生きる」からいいので、「死」は自分で決めることであって、医師が決めることではない。
ボクが後援している劇団四季に、「この生命誰のもの」という芝居があります。ボクが最初に観たのは約20年前だったかな。2年前にも再演されている。
この芝居は1978年にロンドンで初演され、大きな反響がありました。交通事故で脊椎を損傷し、首から下がマヒした男性患者をめぐる話で、尊厳死に真正面から取り組んでいる。
「死」や「老い」について考えるのは、まあ60歳を過ぎてからだろうが、ボクは50代の時にその機会がありました。

残り少なくなった人生、「これだけはやりたい」を最後に選んでやろう。

老後の下の世話その大変さを知りました

昭和60年につくばで科学万博が開催されることになり、準備のために土光敏夫会長の下で、基本構想をまとめる仕事をしました。
その時、女性が科学技術に何を望むのかを知ろうと、新聞社やテレビ局の女性記者らを招いて話を聞いたのです。あるベテラン記者が、夫の両親と自分の親を看取った体験を語りました。
「下の世話まで全部しました。自分がその立場になった時、娘や嫁にそこまでさせるぐらいなら、死んだほうがまし」「証明書があれば入手できる、スーッと死ねる薬ができないものですか」と言うのです。
ボクは、老後の下の世話がそんなに大変なのかと、初めて知った。

牛尾会長もメンバーの民間研究機関「日本創成会議」が6月に、「高齢者の地方移住」を提言して注目されました。今後10年で急増する介護需要について議論されたのですか。

座長の増田寛也・元総務相がまとめたものです。でも、東京圏に住む高齢者は、故郷から出てきて、苦労していまの生活を築き、東京を終の住処にしようという人が多い。とっくに縁の薄れた田舎に帰ることには約6割が反対でしょう。
こうしたことは、個人個人の人生観に関わる問題でもある。

日本創成会議は、『高齢者の終末期医療を考える 長寿時代の看取り』(発行・日本生産性本部)という冊子も出しました。国民的な議論が必要だとする提言は、非常に重要だと思います。

ボクも会合に3、4回出席して、在宅医療に取り組んでいる医師らの話を聞きました。みなさん、本当にご苦労されているんですね。
この問題は、よほど注意して議論しなければいけない。社会福祉の費用を減らすためと受け取られてしまうと、いっぺんに卑しいものになってしまう。
日本は少子高齢化が急速に進み、税金を払う人が少なくなり、税金を使う人がどんどん増えている。30兆円もの赤字で、企業なら4、5年で倒産ですよ。非常に深刻な問題なのに、議論そのものが歓迎されない社会になっている。

80歳まで働こう 女性の活躍も日本を支える

ボクの考えは、いまは60歳を過ぎてますます元気な人が多いんだから、働ける人は80歳ぐらいまで働いて、大いに稼ぎ、税金を納めてもらう。80歳まで働ける社会をつくる。
もうひとつ。女性の雇用が増えて女性の地位が高まり、給料も上がって納税が増えている。女性は昔からしっかりしていて、マネジメントパワーがある。男性からの税収が減っても、女性の分が増えれば、日本はこの先10年ぐらいは、なんとかやっていけるのではないでしょうか。

同世代の協会会員に何かアドバイスはありますか。

人生残り少なくなってから振り返ると、「これもしたい」「あれもやりたい」と思ったことが、半分もできていない。でも、「これだけは」ということを、みなさんそれぞれが持っていると思う。最後にそれを選ぶべきです。
年をとったらできるだけ社会に貢献することが大事だし、貢献するからにはみんなを幸せにすることをしたいと思いますね。
ボク個人は、こうしたいという考えをもっています。

人生はそれぞれだ。生き方を選べる社会を

年をとったら社会貢献でみんなを幸せに

ウシオ電機は去年4月、50周年を迎えました。ボクは33歳でこの会社を創りましてね、50年間、現役の代表取締役を務めている。あらゆることを全部、自分で決めてきた。
50年間やってきたので、去年、会社の経営者としてのボクの役割を今後どういう風にしていくか、色々と考えたんですが、もうしばらく会社の変革を手伝うことに決めました。日本はこれからの10年、おそらく一番厳しい時代を迎えるでしょう。
ボクみたいに個人で生きてきた人間は、「人生はそれぞれだ」ということを非常に重視します。今の社会は杓子定規ですよね。みんなが自分の生き方を選べる社会が一番素晴らしい。

会員が元気をもらえるお話をうかがうことができました。本日はありがとうございました。

インタビューを終えて

超高齢化社会を迎え、「死」を考えることは避けられない時代になりました。牛尾会長の「人生とはなにか」「生きるとはなにか」「一生をかけて考えていくことである」という姿勢が印象的でした。自分が最期にどのような死を迎えたいのか、私たち1人ひとりが真剣に考えていく必要があります。
伊勢田暁子・協会評議員(看護師、国会議員政策秘書)