LW時代(2)

カレンさんのその後

一般財団法人日本尊厳死協会
理事 白井 正夫

カレンさんといえば、「尊厳死」という言葉はこの人から生まれ、広まったといってよい。持続的植物状態(遷延性意識障害)に陥った彼女の「死ぬ権利」を認める歴史的判決が1976年の米国で出て、判決に基づいて人工呼吸器が外された。〝神の手〟に委ねられた彼女は、安らかな死を迎えるはずだったが・・
 カレン・クインランさん(当時22)は75年4月、こん睡状態に陥った。ノドを切開して人工呼吸器が装着され、経鼻管栄養が施された。「意識が戻ることはない」という診断に、両親は「尊厳をもって死ぬ権利」を求めて、呼吸器外しを認めてほしいと裁判を起こした。訴えの理由は、彼女が「器械につながれて、意識もなく生かされるのは絶対イヤ」と言っていたことだった。
 ニュージャージー州高裁は訴えを退けたが、州最高裁は翌76年3月、医師の同意を条件としながら「病状回復が不可能なら、生命を維持している人工呼吸器を止めてよい」と逆転判決を言い渡した。「画期的な安楽死判決」は世界的ニュースとして地球を駆け巡ったが、朝日新聞など一部メディアは尊厳をもって死ぬ権利容認から「尊厳死判決」とうたった。
 何ごとも「安楽死」の一語で語られていたなかで、「尊厳死」という言葉と理念がこの判決から世界に広がった。カレンさんが尊厳死の代名詞といわれる所以だ。

判決で呼吸器外し9年生きる

 判決が示した諸条件をクリアして76年5月、人工呼吸器が外された。誰もが「安らかな死」が訪れると思っていたが、呼吸器を外したら彼女に自発呼吸が戻った。報道によれば、即座にあっさり中止するわけにいかなかった担当医は、徐々に「人工呼吸器なしの生活」に慣らし、呼吸器のバルブを閉じておく時間を短時間から次第に長く伸ばしていったという。
 自発呼吸が戻った彼女は、その後は療護施設に移り、栄養・水分補給と手厚い看護を受けて、植物状態のまま9年余生き続けた。亡くなったのは1985年6月。新聞はまた大きく取り上げ、彼女が「尊厳死」問題を提起した人であることを伝えている。  裁判で尊厳死を認められながら植物状態のまま生きる彼女に、家族はその後、何の裁判も起こしていない。今の米国ならおそらく「水分・栄養補給の停止」まで争われると思うのだが。
 世間やマスコミは「尊厳死」という言葉を躍らしたが、どうも家族は「娘の死」そのものを求めていたのではなかったのではないか。ニュースだけを追っていると、こうした疑問に突き当たる。
答えは身近にあった。
生命維持装置外して
 日本尊厳死協会の会報36号(84年発行)が、カレンさんの近況を伝えた朝日新聞記事を紹介している。 記者はカレンさんの母親にインタビューし、「医師の言う通り人工呼吸器につないでいたら、カレンはいままで生きていられたでしょうか」という言葉を書いている。彼女が亡くなる1年前のことである。言葉通りなら、裁判の目的は「人工呼吸器を外す」ことだけであり、「死なせる」ことではなかったことになる。
 記者は「両親は、(器械につながれて意識もなく、生かされるのは絶対いやという)娘の意思に従う、と繰り返し強調した」と伝えている。

「死」を連れないでスタートした尊厳死

 娘の希望はかなえてあげられたのだから、あとの「生」については争う必要もなかっただけ。言い方が適当でないかもしれないが、「死」を連れないで歩み始めた「尊厳死」は、その後内外の多くの出来事を包み込んで名実ともに今日に成長したとも言える。
 こうした結果にも「早すぎた尊厳死判決」という非難が沸き起こらないのも米国流である。カレンさんの尊厳死判決を受けて、本人意思を尊重するリビングウイル法が各州に生まれ、彼女が亡くなった年には22州に広まっていた(現在は全州に)。
 さて、判決に従って人工呼吸器を外したら生命力が蘇った話は稀有ではない。 これは韓国の話。大法院(最高裁)で2009年5月、遷延性意識障害の女性患者(76)の人工呼吸器除去を病院に命じる韓国で初めての「尊厳死判決」が確定した。「延命措置中止を求める事前の意思が必要」などが要件だった。
 1か月後、判決に従って病院で人工呼吸器が外された。患者はふうーっと一度大きく呼吸した。外せば長くて3時間はもたないという大方の予想とは違って、自発呼吸が戻り、呼吸、脈拍、血圧、体温とも正常になった。  予期しない状況に病院は「尊厳死は抑制されなければならない」と発表した。新聞は「患者は尊厳ある死ではなく、尊厳ある生命力を見せた」と驚きの様子を伝えた。患者はその後、202日間生き続けて亡くなった。
 「本人意思の尊重」は尊厳死の大前提であることに異論はない。が、終末期医療には「延命措置の中止」という一言ではすまない深さがある。