【第四回】看護師の視点から 木工達也

長尾先生の「死の授業」を受けました。
本や映像からではなく、死や死の周辺から学ぶことは次元が違うように思えます。
知識として蓄えるということではなく、圧倒的な影響力を持って人生を問いかけられるような。

私は以前、総合病院で看護師をしていました。直接的に相対するその経験が比較的多いと思いますが、他の人はどうなのでしょう。そこから何を受取っているのでしょうか。

進行胃がんのため、26歳の若さで亡くなった女性がいました。当時消化器内科の病棟を担当していた私は、化学療法を受ける彼女からその後の人生を一転させるような大事な事を学んだのです。彼女は辛い治療に怯むことなく、自分に降りかかった致命的な病気を恨むこともなく、当たり前のように健康でいる私を羨むこともなく、自分の人生を大切に生きていました。言葉ではなく、与えられた(私から見れば過酷とも言える)運命に対する態度で、私に大事な事を教えてくれたと思っています。彼女の心の変遷をたどることはできませんが、あのような態度になるまでには内面では勿論相当の葛藤があったはずです。それを消化して、あの圧倒的な人格になったのだろうと推察できます。しばらくして偶然に院内で会った彼女の外見はすっかり変わってしまっていましたが、太陽のような内面はそのままでした。その数か月後に彼女は亡くなりました。

彼女が教えてくれたこと。
何を誇りに思い、何を身につけ、何に向かって生きていくのか。
考え始めるのに早すぎることはないと思いました。

毎日の病院のなかで、このようなこととは対極にある出来事も多くあります。
-家族が戸惑い、意見が噛み合わない中での延命措置。
-蘇生に成功したが、現状(植物状態)に納得のいかない患者家族の怒り。
ある程度の年齢になれば必ず訪れるときに対して準備をしておけば、避けられた修羅場が本当に多くあります。
こういう場面に遭遇すると、医療とは看護とは何なのだろうと分からなくなる時があります。

現場では、こんな流れが圧倒的です。

  • 親が元気な間に孝行を出来なかったから、死の間際にその時間を延長して後悔の念を宥める
  • 親の希望を聞いていなかったから取り敢えず延命をする
  • 親戚に責められるから、体裁として延命をする

こんな理由からでも家族は延命を希望するケースもあるでしょう。

看護師の間では自分の最期について、病院で最期を過ごしたいという声、延命措置を施してほしいといった声を聞いたことがありません。というのは、自宅で最期を過ごしたい、自分らしく最期を迎えたいということです。病院内で一番患者と接している職種が言うのだから、医療従事者の本人の希望はこれにつきるのでしょう。

これまでの、「死の教育」を疎かにしてきた日本の教育と国民皆保険が生んだ結果が、これなのでしょうか。
大がかりなことは急には変わらないけれど、誰にでもできることを提案します。

「自分はいつか死ぬ」という事実を見つめ、その期間をどう過ごしたいかを考えること。考えたら、文書にすること。文書にしたら家族や信用できる周りの人に伝えること。伝えられた人はその気持ちを誠実に受け止めること。結果としてそれは次世代の暮らしにも大きく関わることとなります。

多くの人に真剣に考えてほしいです。
 


看護師 木工 達也