【第三回】死の授業 長尾和宏

守山さんがエッセイの中で言っておられる通り、「終活」が話題になって久しいですが、「生と死」の問題は高齢者に限ったことではないと実感します。

この大事なテーマに関して議論を重ねることなく、「命は地球より重い」だけで済ませてきた問題が、今いよいよ無視できない事として浮上してきたと感じています。

前回のエッセイで、去年のブリタニー・メイナードさんの行為に対し日本の多くの若者が反応したとお伝えしましたが、これは本当に意外な発見でした。
若者にとって「死」は他人事、他の問題で忙しくそんな遠いことを考える時間もヒマも興味もない、と私自身思っていたのです。
しかし、違うんですね。若者はしっかり考えているんです。考えた結果を表明する場がなかっただけで、実はとても深く考え、そしてそれを誠実に伝えてくれるんです。海外では小学生から「生と死の授業」があったり、宗教の授業で死について考える時間があると聞きました。日本ではせいぜい「悪いことをすると地獄に行くよ」程度なのではないかと思います。それでも昔は、大家族で生活していれば身内の死に触れる体験があって、そのときに「死」について考える機会があったのでしょうが、いまは核家族化でそんな体験もありません。「死」について考えることなくいきなり「延命」に直面したりするんです。だから焦る。焦って「なんとかして下さい」となる。
一旦立ち止まって、「死」について考える時間をもたせてあげたいと思うのは私だけでしょうか?

先日、学生や若い社会人20人ほどを相手に「死の授業」をしました。
医学や看護に関わる人たちだったので、各自の知識、体験をもとにしっかりした意見を持つ頼もしい若者たちでした。印象的だったのは、重度認知症者の看護を経験した若者の言葉です。今の日本の終末期医療の現状で、「長生き」=(イコール)幸せ、とは感じられないと正直に言ってくれました。重度認知症になるとその周辺行動として、思いがけない色々なことをする場合があります。受け入れ難い言動もあります。彼は「人間の尊厳」について深く考え、「長生きとは」、「認知症者の尊厳をどう保つのか」等、悩んだのではないでしょうか。認知症800万人時代を迎えるにあたり、この問題は避けて通れません。日本では周りの皆が助け合って、支え合って、厳しい状況の中でも小さな楽しみを見つけてお迎えが来るのを待とう、意思を十分に表明出来なくなっても、家族や周囲の人が忖度して物事を進めていこうというのが伝統的な姿だと思うのですが、欧米では「自己決定、自主自立あっての人間」という考えが強く、認知症になるのを日本人以上に恐れているようです。去年の11月に開催された「死の権利協会世界連合」シカゴ大会では認知症の話題でいっぱいでした。アメリカの団体は「My Last Wishes-わたしの最後の願い」と題した事前指示書のオプション条項で、

「わたしの死生観を尊重し、いかに意味あるものだとしてもあなたの信念を押し付けないで下さい。生活の質と自己決定が、わたしにとって特に優先されるべきものなのです。」
とした上で、
・記載されている状況のうち、(ひとつでも/ふたつ/3つ以上)出現したら、わたしの命の延長措置は取らないで下さい。

    •    私が私の愛する人たちを忘れてしまったとき
    •    私の行動が度々暴力的、破壊的になったとき
    •    失禁するようになったとき
・・・・・・・・・
などと続きます。

前述の様に日本には欧米とは違う、日本の文化と伝統がありますので、それを大切にしながら本人の自己決定を最大限尊重し、かつQOLと尊厳を保つことを保証するしくみが今まさに必要とされています。
その自己決定の部分を「リビング・ウイル」という形で実現したいのです。

タブー視されている日本人の「死」の諸問題に風穴を開けるのは実は、若者ではないかと最近思い至り、「長尾和宏の死の授業」(ブックマン社)という本を出しました。

「尊厳死」とは、「安楽死」とは・・・?
何故「死」を恐れるのか、「死」は誰にとってショックなのか・・・?
「死の権利」はあるのか、日本人は死に方を選べるのか・・・?

一度、「死」ととことん向き合ってみませんか。
 


長尾和宏 プロフィール:

日本尊厳死協会 副理事長
東京医科大学卒業後、大阪大学病院内科勤務を経て尼崎市に在宅医療の長尾クリニックを開業。東京医科大学客員教授。阪神大震災、東日本大震災後真っ先に現地に駆けつける「震災ドクター」。ベストセラー本「平穏死10の条件」「ばあちゃん、介護施設を間違えたらもっとボケルるで」の出版をはじめ年間約70回の全国講演をして、「医療とは、介護とは、人間とは」をトピックに、リビング・ウイル普及活動をしている。