【命と向き合って】-閖上(ゆりあげ)の記憶

3月17日、私は、仙台の勾当台公園から、「閖上」に向けて走っていた。 隣接する名取市にある閖上地区は、3年前の東日本大震災による津波に呑み込まれた。約5000人の住民のうち700人を超える死者・行方不明者が出た地域だ。 この閖上が注目されたのは、それだけではない。3・11当日の午後4時に、津波の恐ろしさを全国に知らせたNHKの空撮映像が、この地区のすぐ近くを流れる名取川流域だったのだ。家屋やビニールハウスがなぎ倒され、右往左往する車の様子が生放送で伝えられた。

仙台から15km走って、閖上地区に入る。仙台東部道路の名取インターチェンジ辺りから、道路が荒れてくる。津波の痕跡だ。歩道橋を渡り、市立閖上中学校の正門にたどりつく。3・11の慰霊祭が行われた直後なので、慰霊碑の周りに花束がたくさん供えられている。

当時、中学1年生だったA君は、母親とともに閖上地区公民館の敷地にいた。地震から1時間以上経ったころ、海側の住宅街から黒い煙が立ち上るのが見えた。誰かが「津波だ!」と叫んだ。家屋を巻き込んで押寄せてくるから、黒い煙に見えたのだ。母親は公民館の2階に駆け上がったが、A君とは、はぐれてしまった。A君は友人とともに、約500メートル離れた閖上中学校へ走った。2階建ての公民館よりも高い。周りにはほかに高い建物がないから、中学校まで走るしかない。黒い波から逃れようと必死で。その友人は、なんとか中学校までたどりついたが、A君はその手前の瓦礫の中で亡くなっているのが見つかった。

中学校前の慰霊碑には、手で触れられる高さに、A君ら14人の中学生の名が刻まれている。訪れた人たちに撫でてもらえれば、みんな温かくいられるからだ。遺族らが、「最後のゴール地点」という意味で、ここに建てた。そのわきの机に、手書きの文字。 「大勢の人達が津波から逃れる為、この閖中を目指し走りました。(中略)沢山の人達の命が今もここにある事を忘れないで欲しい」

私は何度も、何度も、14人の名前を撫でた。一番、右下にあるA君の名前も。 「あと少しだったのにね。でも、よくがんばった」

私は家ひとつ建っていない被災地を走り続けた。でこぼこの歩道のくぼみに足を取られてくじく。足を引きずりながら10kmほど先の名取駅を目指す。痛みが増す。靴を脱いでみると、くるぶしが腫れ上がっている。歩くほどのスピードになる。でも、走る。 あの日、A君が走ったように。

ふと、気づく。 私は、「痛い」と言えることに。