【私の本棚】-0葬・・・あっさり死ぬ

数年前、日本海側のまちにあった実家を処分した際、仏壇をどうするか、悩ましい問題になった。結局、長男の私がみる羽目になり、仏壇ははるばる横浜にやってきた。手狭な集合住宅ながら洋タンスの並びにスペースがあり、少し金ぴかのクラシックスタイルがほどよく収まったのは幸いだった。
自然葬の先にある〝究極の散骨〟
「死者とともに生きる必要は、もうない」。協会に贈られてきた著名な宗教学者、島田裕巳さんの近著、『0葬――あっさり死ぬ』(集英社、2014年1月刊、1200円+税)を開いたら、いきなりこの書き出しである。そも「0葬(ゼロそう)」は何?
書き出しで否定された「共生」の証しとして地方でみかける仏間や仏壇があげられていた。住宅事情から都会では最近なじまないとあったが、わが仏壇がよぎった。そんなこと思いもしなかったのに、私もまた、死者とともに生きているということか。
自分の葬式や墓の問題で悩む人が増えているという。そんななか遺骨を墓に葬らず、海や山にまく散骨が知られてきている。島田さんは自然葬・散骨を推進する「葬送の自由をすすめる会」の会長。運動にかかわるなか思い至ったのが自然葬の先にある、火葬場で遺骨すら引き取らない「0葬」の提唱である。
えっ、遺骨を引き取らない! そう、焼骨は火葬場で処理してもらう。死者を丁重に弔ってきた日本人の精神からすれば、過激な〝究極の散骨〟ある。
現代日本で人を葬ることは人間関係、費用面で相当に面倒であり、墓を持つのも厄介である。だから子孫に面倒と厄介を残さず、自分の生き方のためにも「葬式も墓もいらない」という選択肢があっていい。そう決めた人たちは、残される人や自分を取り巻く社会に「迷惑をかけない」死に方を考えないといけない。それがどういうことかを考えるのが本書である。
面倒、厄介とそこからの解放が8章にまとめられている。生老病死につきまとう資本の論理、葬式仏教への疑問をバネにしてマイ自然葬、究極の0葬への展開はもう立派な思想である。
「死者とともに生きない」という大事業
でも火葬場で遺骨を引き取らないことが可能なのか。自治体運営の火葬場では、条例で火葬依頼者は焼骨を引き取らねばならない定めがある。しかし民間を含めて申し出があれば引き取らなくても構わない所があり、どうやら近年増えているというのだが。
さて、わが仏壇である。旅に出るときよく「留守番頼むね」と鉦をチーンとひとたたき。ご先祖様に留守番を頼む有様で、「死者とともに生きる」日常がある。しかし、それも私の代限りと覚悟している。「0葬」に共鳴するわけではないが、〝仏壇流転〟を終わらせるのはわが生涯の大事業と心得ている。
(m)