【第五回】忘れられないこと、哲学的に悩むこと 満岡 聰

佐賀平野の北の端で小さな無床診療所を開業してから15年が過ぎた。当初は、消化器、肝臓を中心とした専門医療を提供するというコンセプトで始めたが、現在はプライマリ・ケアと在宅医療へと方向性が変えている。患者さんたちの高齢化が進み、地域のニーズを考えるとそうせざるを得なかった。それでも、患者さんたちの生活の場にでて行くと、得ること学ぶことがたくさんあり、良かったと思っている。医療の質も病気を治す(cure)から生活を総合的に支える (care) へ方向が変わってきた。

 私が尊厳死に関心をもったきっかけは1986年7月、研修医の時の出来事だ。産業医科大学を卒業後、地元の大学に入局して、最初のローテートは神経内科だった。まだ国家試験に合格し、医師免許を取得したからといって、臨床の経験がほとんどない研修医にとっては毎日が極度の緊張の連続だった。研修3日目にFisher症候群の患者さんの腰椎穿刺を初めて行った時はしばらく動けなくなった。当時は研修医といえども、医師免許を持っている以上、1人前の医師として、何でもできることを要求された。検査や処方の方針に関して、しっかり要集して自分なりの考えをもたずにオーベン(指導医)に質問をするこっぴどく怒られた。研修医として働き始めて1ヶ月ほど経ったある日、HさんというALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんを受け持つことになった。ALSは運動神経に障害が起こり、感覚神経は保たれるため、意識や五感は保たれたまま、全身の筋肉が徐々に萎縮し、自分で動くことはおろか、食事や会話、排泄、ついには呼吸すらできなくなってしまうという難病で、現在でも治療法は見つかっていない。Hさんは60歳前後で奥さんと年頃の2人の娘さんと暮らしていた。入院時、すでに全身の筋肉は萎縮しており、立つことはできたが歩くことはできなかった。かろうじて、短時間の会話ができ、呼吸をするのもやっとという状態であった。素人の私にも遠からず呼吸が止まることがわかった。指導医に、「先生、どう治療すればいいんですか」と尋ね、「治療法はありません」「じゃあ、どうすればいいんですか?どうしてそんな患者さんを入院させたんですか」という問いに返ってきた言葉は「哲学的に悩んでください」であったことを覚えている。今思えば指導医も、歩行障害で大学病院を受診した患者さんを治療法がないと言って突き放すわけにもゆかず、入院させたものの、どう対応すればよいのか答えを持っていなかったのだと思う。ただ、この時点で私は指導医に相談することをあきらめた。それからが大変だった。

一晩徹夜で文献をあたり、グルカゴンが有効であったという報告を見つけ、注射をしてみたものの、効果は全くないまま徒に時間だけが過ぎていった。カンファランスは全く役に立たなかった。
最大の問題は呼吸が止まった時に人工呼吸器をつけるかどうかということであった。ALSの本来の死因は呼吸筋麻痺による窒息であるが、人工呼吸器をつけることによって、延命を図ることが出来る。しかし、やがてTLS (Totally Locked in State)という状況が起こってしまう可能性がある。当初は眼球の動きと瞬きでコミュニケーションをとることも可能であるがやがてそれもできなくなる日が来る。聴覚は保たれているが見ることも話すことも体を動かすことができない、他人とのコミュニケーションがとれない状況だ。しかも一度つけてしまった人工呼吸器をはずすことは積極的安楽死となるため、死に至るまでこの状況が続くのだ。また、当時は福祉制度が充実していなかったため、ご家族の介護の負担も大きく、家屋敷を売り払ったとか、娘さんたちが婚期を逃したという話を神経内科の先輩医師たちから聞かされていた。
Hさんには病名すら知らされていなかった。当時の大学病院では、がんの告知すら行ってはいけないという時代だった。指導医も病名を患者さんに告げ、予後を説明するだけの人権意識や技術がなかったのだと思う。インフォームド・コンセントという言葉が世に普及する前のことだった。患者さんに病名を告げ、今後の経過と呼吸筋困難が起こった場合人工呼吸器を装着するかどうかを尋ねることはできなかった。
そこで入院2日目に奥さんと娘さん2人を呼び、病名と今後の経過見込み、間もなく呼吸筋麻痺がおこることを伝え、人工呼吸器を装着するかどうかの判断を相談し、装着しないという判断をした。当時の人工呼吸器は800万円ほどで確か病棟に2台あったと思う。2台ともALS患者さんに装着されていた。お二人とも人工呼吸器装着時はコミュニケーションがとれていたようだが、徐々に病状が進行し、コミュニケーションができない状態になっていた。
入院3日目、Hさんの呼吸が止まった。挿管、人工呼吸器装着は行わなかった。そういう約束だったからだ。娘さんたちと奥さんの阿鼻叫喚の中で、私は何もできなかった。医師となって初めての死亡確認を済ませた後、私はどう過ごしていたか、覚えていない。その後6年間で数多くの看取りを経験したがお見送りをできなかったのはこの1度だけだった。
小学校からの長い受験勉強と大学での勉強、国家試験を経てようやく医者になって高揚していた気持ちは見事に粉砕された。
以来、オーベンに言われたことは、ずっと心に残っている。哲学的に悩むこと。
私はどうすればよかったのだろうか。

ビーチャム・チルドレスは、自律の尊重、無危害、善行、正義を生命倫理の4原則として提唱している。私が悩んだ末に行ったこと、行わなかったことは、この4原則に照らせば、少なくとも自律の尊重が出来なかった。危害は加えてはいない。善行、正義については何が良くて何が正しいのかはわからない。自分に足りなかったことは、Hさんに、予後不良な病気であることを伝え、その後に起こる患者さんの葛藤を支えていく方法を知らなかったことだ。また、指導医もそうした方法を知らなかったし、さらに精神科医や臨床心理士などのサポート体制もなかったのだ。今でもあるかどうか疑問だ。
この10年後、国立がん研究センターが1996年に発表した癌告知マニュアルにこう記されている。(引用始め)がん告知に関して、現在は、特にがん専門病院では「告げるか、告げないか」という議論をする段階では、もはやなく、「如何に事実を伝え、その後どのように患者に対応し援助していくか」という告知の質を考えていく時期にきているといえる。患者にがん告知を行うためには、少なくとも告げ方と告げた後に患者を支えていく技術が必要である。このような技術を学ぶことなく患者にがんと伝えることは、糸結び、メスやハサミの使い方、術後管理を知らない医師が手術の執刀医になるのと同じである、とまでいわれている。(引用終わり)このマニュアルに行き当たったとき、我が意を得た思いがした。

神経難病でも、がんの告知についても「悪いしらせ」を知らせることは大変困難なことであるが、体系だったやり方があり、学ぶべき技術であるということには変わりない。ロバート・バックマンの言葉はいつも心の中にある。「悪い知らせを伝えることは医療従事者の任務である。もしひどいやり方で行えば、患者や家族は医療従事者を許さないであろう。もし、ふさわしいやり方で行えば、家族や患者は医療従事者を一生忘れないであろう」
医師にとって、患者さんの希望による尊厳死とは、究極の自律尊重だと思う。そして、患者さんの尊厳を守るためにはコミュニケーション技術と生命倫理についての学びが不可欠だと思う。あれから29年が過ぎた。IT機器の発達により、コミュニケーション手段は格段に進歩し、携帯型の人工呼吸器も開発され、在宅医療体制も充実してきた。また、メンタル面でのサポートが出来る人材も増えてきた。今ならばもっと悔いのない対応ができるかというと、わからないと言わざるを得ない。病気そのものが進行性であり未だ根本的な治療法がないからだ。悪い知らせを受けた後、患者さんがそれを受け止めるのに必要な時間はがんの経験からいうと2週間ほどだが、Hさんの呼吸が止まるまでの時間は2日もなかった。末期状態で本人が告知でうけた衝撃から立ち直るまでの時間があるか、適応障害やうつ状態のまま亡くならないかという心配は常にある。今の時代にだったら、人工呼吸器を装着しても29年前より高いQOLは保てると思う。 
最近、高齢化に伴って認知症の患者さんが激増している。認知症も死に至る病ではあるが、死の準備をしている人は少ない。独居や老老介護の認知症の夫婦の治療や栄養をどうするか、本人の意思の確認が困難な事例にときどき遭遇する。家族がいて、本人の意思が推定できる場合はまだ良い。独居で近親者がいなかったり、いても縁遠かったりする場合は本当に悩ましい。何がその方にとって最善なのか、正義なのか。我々医療介護福祉関係者が本人の意思を尊重するためにもリビング・ウィルの義務化を勧めて欲しいと願う。
 


満岡 聰 プロフィール:

満岡 聰 氏 (満岡内科消化器科医院院長・医学博士)
「在宅ネット・さが」代表世話人、日本尊厳死協会・さが会長
長崎県諌早市出身(1959.9.10生)。
産業医科大学卒業後、長崎大学付属病院第一内科入局、長崎大学大学院卒業。
佐世保中央病院、国立佐賀病院勤務後、2000年7月1日、満岡内科消化器科医院開業。開業のかたわら、在宅緩和ケアの普及のため、佐賀大学医学部大学院等で緩和ケアの講義を行っている。死の準備教育にも取り組み、全国各地で命の授業や講演、ワークショップを開催。2010年に佐賀県の在宅医療介護に関わる多職種連携のネットワーク「在宅ネット・さが」を有志と立ちあげた。「在宅ネット・さが」は2013年に佐賀県在宅療養ガイドブックを出版し、JPAPオレンジサークルアワード2013 The Best Education model of the year を受賞。